がん研究が教えてくれたこと

近代生命科学(分子細胞生物学)を牽引してきたのは、がん研究と免疫研究です。その詳細は割愛しますが、特にがん研究は世界レベルで社会的ニーズが強いことが大きな理由の一つです。

前世紀に最初のがん遺伝子”Src”が発見された時、「がんは統一原理に基づいて克服(予防・治療)できるかもしれない!」という期待が高まりました。ところが、その後の研究で続々と多数のがん遺伝子、さらに、がん抑制遺伝子が発見されました。本来は正常に機能するこれらの遺伝子に異常が生じると、細胞や組織ががん化します。最近、エピジェネティックな変化(後述)もがん化を引き起こすことが分かりました。結局、がんのタイプによって異なる予防法や治療法を樹立する必要があることが分かってきました。しかしこれは、悲観するべき状況ではありません。研究は日々進歩しています。比較的最近の例では、子宮頸がんのワクチンがあります。子宮頸がんは男性精液の中に存在するパピローマウィルスによって引き起こされます。10代でパピローマウィルスに対するワクチンを接種すると20代30代で発症するリスクを20%程度までに抑制することが証明されました。これは、かなり時間をかけた縦断的予防研究の成果です。アルツハイマー病でも出来ないはずがありません。がんはその種類だけ予防法と治療法があると予想されます。がんの臨床研究が終焉することは当分ないでしょう。

脳神経系の病気でも、ALSや自閉症スペクトル症候群などは似た状況にあります。いずれも遺伝子の影響の強いもの(家族性)とそうでないもの(孤発性)があります。ALS研究では、最初に見つかった家族性原因遺伝子SOD1の変異を利用した遺伝子改変マウスモデルが作製されました。症状はALSの患者さんと似ていますが、このモデルに基づいて開発された薬剤がヒトに対する治験では全く効果がありませんでした。理由は、アルツハイマー病の場合と少し違うようです。その後、作用機序がSOD1とは全く異なる原因遺伝子が多数発見された上に、SOD1変異による家族性ALS(およびマウスモデル)は一般的ALSに見られる病理学的変化を伴わないことが分かりました。原因遺伝子のタイプによって発症機構や神経病理が異なるので、それぞれに対応した治療法を選ばなければいけないようです。一番の問題は、ALSの大多数が孤発性であることです。未だ原因不明の孤発性ALSをどのように診断・予防・治療するのかは、今後の課題です。自閉症スペクトル症候群に関する研究開発も同様の状況にあります。

アルツハイマー病の場合はどうでしょうか?幸い、上記の「アルツハイマー病の原因と発症機構」で述べたとおり、アミロイド(Aβ)とタウを標的とする統一原理で解決できる可能性が高いと思います。では、なぜすぐに解決できないのでしょうか?理由は主に二つあります。一つは「時間」の要素です。ヒトの場合、脳内にアミロイド(Aβ)が蓄積し始めてからタウ蓄積を経て神経変性に至るまで約20年を要します。実験科学的に研究開発を成功させるためには、この20年という「時間」を合理的に短縮するするモデル動物が必要です。下記の「次世代型アルツハイマー病モデル動物」が、発症過程におけるメカニズムを解明する上で決定的役割を果たすでしょう。がん研究においても、最初のがん幹細胞が生じてから実際に発症するまで10年以上を要することが分かってきました。悪性腫瘍細胞等を用いることによってこの時間を短縮し、実験科学の対象となりました。アルツハイマー病研究においても、この「時間」の要素を合理的に短縮する必要があります。

もう一つの要素は、「脳神経系の複雑さ」です。脳は宇宙よりも複雑です。どんなに凄いスーパーコンピューターも、人間の脳を再現することは出来ません。皆さん一人一人が、こんなに素晴らしい脳神経系を持っているのです。脳内でコンピューターのようなネットワークを作っているのは神経細胞(ニューロン)です。神経細胞は大まかに、興奮性ニューロンと抑制性ニューロンに分類されますが、それぞれ多種類が存在します。これらの多種多様な神経細胞がさらに多数のシナプスを介して連結し、回路を形成します。これだけで天文学的な組み合わせが生じるのですが、脳実質全体で神経細胞が占める体積は約1割です。残りの9割は、アストロサイトやミクログリアと言われるグリア細胞から成ります。古典的な神経科学では、グリア細胞は神経細胞を支える脇役と考えられていましたが、今は重要な生理機能があることが分かってきました。さらに、アルツハイマー病やALSなどの神経変性疾患においてグリア細胞は活性化され発症に決定的な役割を果たすと考えられるようになりました。アミロイド(Aβ)やタウが発症機構に関わることが確定したとは言え、これだけ沢山ある細胞種の中から標的を決めるのは容易なことではありません。

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がん細胞落谷孝弘

がん細胞(独立行政法人 国立がん研究センター研究所分子細胞治療研究分野 分野長落谷 孝広先生提供)