基礎研究は何故必要か?

明治維新の直前、幕末の勇長州と薩摩は欧米列強の海軍に完膚なきまでに叩きのめされました。それでも、明治政府は急速に力をつけ、ほぼ対等のレベルに達しました。まともな軍艦さえ作ることが出来なかったのに、航空母艦を保有するまでになったことは奇跡といえます。アジア諸国でこれが出来たのは日本だけです。これは、欧米の科学技術を吸収する強い基盤が日本にあったからだと思います。

医学研究に関しても同じことが言えます。基礎研究の柱がなければ、応用研究は育たないからです。私達がアミロイド(Aβ)分解に取り組んだ時はゼロからの出発でした。しかし、その背景には日本の生化学会の伝統力がありました。「タンパク質の生体内における寿命はどのようにして決まるか?」という問いに答えることが長年の課題だったのです。私達の身体の中では、数百時間で分解されるタンパク質がある一方で、数分で分解されるものがあります。このメカニズムが長年謎でした。

細胞の中の蛋白質分解は比較的容易です。分子生物学と細胞生物学の方法を組み合わせることによって、かなりのことが分かりました。一方、アミロイド(Aβ)は細胞外で分解されます。しかも、脳という最も複雑な臓器の中で分解されます。通常の分子細胞生物学的な方法では解明できないと、私達は判断しました。1997年のことです。

そこで、世界中で誰も考えなかった研究計画を立案しました。アミロイド(Aβ)ペプチドを化学合成して動物脳内に投与し、分解過程を経時的に捕らえようというものです。生体内で生成される病原性アミロイド(Aβ)ペプチドは42個のアミノ酸からなるアミロイド(Aβ)ペプチドAβ1-42です。Aβ1-42は非常に取り扱いが難しく、当時Aβ1-42を合成することができる人はほとんどいませんでした。しかも我々の研究計画では、ラジオアイソトープで内部標識したAβ1-42を合成する必要がありました。何故なら、標識していないAβ1-42を投与すると、脳内の他のペプチドに紛れてしまって追跡することができなくなってしまうからです。ラジオアイソトープで内部標識したAβ1-42の合成は前代未聞でした。

私は、理研に異動する前に在籍した(財)東京都臨床医学総合研究所(現(財)東京都医学総合研究所)で1,000近い数のペプチドを自分で合成した経験がありました。これは100%基礎研究です。ペプチドは、合成しただけでは完成しません。精製しなければなりません。これが本当に大変でした。さらに、麻酔で眠らせたラットやマウスの海馬に精製Aβ1-42を投与し、経時的に脳を取り出し、Aβ1-42とその分解産物を分離・分析し、同定しなければなりません。ラットの海馬は2 mm x 3 mmもありません。(マウスはそれ以下です。)そこに、0.5 μl(1 mlの2,000分の1)のAβ1-42溶液を打ち込むわけです。有機合成化学・分析化学・解剖学・生化学・質量分析学等の専門的知識と技術が不可欠でした。当初からこの研究計画に参加した岩田修永研究員(副チームリーダーを経て現長崎大学教授)と津吹聡テクニカルスタッフ(現専門職研究員・(株)理研バイオ取締役)は、絶対的貢献をしました。

この研究計画が成功しなかったら、私達の研究室は理研から消えていたでしょう。逆にこの実績があったからこそ、12年をかけて革新的なマウスモデルを作ることができたのだと思います。また、アルツハイマー病の遺伝子治療や経口予防薬開発へと発展しているわけです。基礎研究(狭義の研究)と応用研究(所謂開発)は、車の両輪のようなものです。基礎研究を止めたら、結果的に応用研究は潰れます。

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鈴木紘一教授ご夫妻