そもそも疾患とは何か?

以下は、単行本「アルツハイマー病の分子医学」(中外医学社:1996年)のイントロダクションに使った文章です。約20年経った今も基本的に変わっていないと思います。そして、予言したとおり、アルツハイマー病の予防につながるアミロイド(Aβ)分解酵素ネプリライシンを2001年に同定しました。また、当時から研究班の構想があったこともおわかりいただけると思います。

 健康と病は,一見,生命活動の両極に位置するように思われるが,現代生命科学(基礎生物学から臨床医学を含む)は,この常識を覆した.すなわち,多くの場合,生体が機能するのに必要な構成成分がある条件では生体に害をなす,というパラドックスが病気の本質である.典型的な例は,癌研究によって明らかになったオンコジーン(癌遺伝子)である.本来,正常細胞を癌化させる遺伝子として発見されてきたオンコジーンは,実は,細胞が増殖する上で必須のものであることが明らかになってきた.病気はむしろその機能調節の異常に起因する.したがって,正常型オンコジーンがなければ我々は個体として存在し得ない.同様に,自己免疫疾患の原因である免疫系がなければ,我々はいともたやすく感染症で死ぬであろう.

 このことは,脳においてさらに高次化する.我々の実在の唯一の拠り所である記憶し思考する活動に必要な構成成分は,高度な神経分化の産物であるが,同時に,虚血性脳変性疾患において神経細胞を破壊する活動に必須である.すなわち,これらの病気の条件では,我々自身の細胞が積極的に我々の生体としての機能を破壊しているのである(本シリーズ「脳虚血とニューロンの死: 桐野高明著」参照).脳において我々に記憶と思考を与えるものが,一方で,我々に痴呆を含む機能障害を与える.

 アルツハイマー病は,日,米,独等で虚血性疾患と対をなすかたちで老人痴呆の主原因となっている.現時点では,予防・治療法はおろか対症療法でさえみいだされていない.したがって,一般の臨床医の間でも神経内科や老人科を除くとアルツハイマー病に対する認識は低い.しかしながら,最近の病理学的・生化学的・遺伝学的・分子細胞生物学的研究により,アルツハイマー病に至る過程が徐々に明らかになっている.基本的には,βアミロイドといわれる物質が脳内に蓄積し,老人斑を形成する過程が必須であることは,ほぼ間違いない.(この“βアミロイド仮説”に反対するグループのいることも明記しておく.)βアミロイドは前駆体蛋白質から切り出されてくるペプチドであるが,正常の脳において定常的に分泌されているうえに,前駆体蛋白質の断片化や分泌は脳が機能する上で必要であると考えられる.したがって,アルツハイマー病も,その実体は,生体が機能するのに必要な構成成分がある条件では生体に害をなす,というパラドックスに該当すると考えてよいと思う.しかも,老人斑の形成は個人差があるものの人間の脳の老化においてかなり普遍的にみられる現象である.

 これらのことは,老化とは正常な脳の生理活動の延長上にあり,さらに,その延長上にアルツハイマー病があるということを示唆する.脳内でβアミロイドが蓄積し始め,老人斑を形成し,症状が出始めるまでには,十年以上(おそらく数十年)を要すると考えられるので,たとえ70歳以降に発病するケースでもその起源は40-60代(あるいはそれ以前!)に遡れるであろう.この意味で,アルツハイマー病は特殊な病気ではない.むしろ,全ての人が潜在的な患者であると考えた方が正しいであろう.その中で,肉体に比べて脳の老化の進行が速い人が,実際に発病する.したがって,臨床的には,脳の老化を20年程度遅れさせることができれば,アルツハイマー病(若年性のものを除く)は克服できたといえるのである.

 上述から明らかなように,アルツハイマー病を知ることは,「老い」を知ることに他ならない.これは,我々全ての問題である.アルツハイマー病研究は,常に病理学を基礎としているものの,最近の成果の大半(全てといっても過言でない)は,生化学・遺伝学・分子細胞生物学の方法を用いた複合的アプローチによって得られた.今や,様々な研究分野の人間が協力することによってのみ,研究の進行が可能である.特に,医学部出身の研究者 (MD) と基礎分野(薬,理,農等)出身の研究者 (PhD)の共同研究は不可欠である.なぜならば,MDとPhDは知識,技術,経験,理念においてしばしば互いを相補するからである.様々な分野の最新の方法が,アルツハイマー病研究においても新たなる知見を生み出し,これが,新たなアプローチを生み出す概念を形成して行く.

 世界における日本のアルツハイマー病研究は,米国に次いで重要な位置を占める.もし日本人研究者がいなかったらと仮定したら,アルツハイマー病研究はかなり遅れているであろう.本書では,百年近いアルツハイマー病研究の流れのなかで,特に1980年代後半以降の進歩について焦点を絞り,解説する.人間の脳で十年以上の時間を経て進行し,知性を蝕むこの病気は,その性格上,因果関係を直接的・実験的に解析し実証することを長年拒んできた.アルツハイマー病研究に固有ともいえるこの困難さは,研究者を常に悩ませながら,一方で,人間の知恵の可能性を我々に示す結果となった.最近の成果は,それほどめざましいものがある.まだまだ希望的観測に過ぎないが,我々の努力と運次第では,あと数年程度で予防のための基礎知識にたどり着ける可能性もなくはないと思う.

約20年後に読み返して、中学・高校時代に心酔していた哲学者三木清の文体に似ていることに気づき、笑ってしまいました。三木清は京都帝国大学哲学科を卒業しドイツ留学中にハイデッガーに師事した俊才でした。様々の業績を残しましたが、45歳の若さで昭和20年に豊多摩刑務所で獄死しました。今の私より10歳も若かったわけです。当時は、哲学をすることだけで治安維持法により思想犯として投獄されたのです。法律とは怖いものです。

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Takaomi Saido, 1978. このHPでは、あえて私の(高校時代から今までの)写真を掲載しました。「人間は老いること」を若い人達に認識していただくためです。